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空の検索で2件の結果が見つかりました。

  • 100円を持った事がない!?

    信心の話になると彦根のT先生はよく「百円なんて持ったことないということ」だと言われました。当時私はどういうことかよくわかりませんでした。昔は持ってなかったけれども今は持っているということではなくて、いまだかって一度も持ったことがないしこれからも持つことがないのだと。  それから30年ほど経つでしょうか、最近になってようやくその意味が分かってきました。人は信心というものがどこかにあって自分が聞法していくとそれが少しずつ近づいてきてやがてそれを手に入れることができると考えるのです。そして手に入れたものは二度とそれを離さないように強く握ります。しかしつかんでいると思っているのは幻であって手を開けてみるとそこには何もないのです。信心は「まことの心」でありますから仏様のお心です。信心獲得と言いますが私が私の功で手に入れたりするものではないのでしょう。凡夫としての歩みを続ける上でその人を明確に凡夫に安住させ、念仏とともに歩むその姿を信心獲得の人と讃えたのでしょう。  30年前の私は子供がおやつを買いに行く為に100円を握りしめている姿を想像してほほえましく思ったり、でも意味が分からずもどかしい思いをしたことを思い出します。

  • なむなむということ

    お寺の友人が車に乗っているところを見かけました。ふと見るとナンバープレートの数字が「7676」だったので後日会った時「なろなろ」って何の事?と聞いたら彼は「なむなむだ」と言ったのです。その時私は初めて「ああ南無南無か」と気がつきました。ナンバーを南無南無にしたからと言って事故を回避できるわけでもないだろうにと思いながらも妙に納得したことを覚えています。 それと同時に京都ではお年を召した方は「お元気ですか、お変わりありませんか」と聞くと「まあなむなむと」とおっしゃる方がおられます。この言葉の語源が果たして仏教語の南無南無なのかはわかりません。しかし京都でこの言葉が挨拶語として使われることが何かしら京都の奥深さのようなものを感じているのは私だけではないでしょう。

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