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 瑞蓮寺
真宗大谷派 慈雲山

Greetings

ご挨拶

お寺は葬儀や法事を勤めるところです。
それは亡きご先祖を偲ぶ大切な儀式であり、その責任ある仕事をまかされている寺の住職という立場に誇りを感じています。
しかし、お寺の役割はそれにとどまらないと私は考えています。どこまでも主役は現代に生きている私たちです。現代はとても生きにくい時代です。その中で私たちは、前を向いて進んでいかなくてはなりません。現在に立ち前に進むためには、過去を振り返ることが必要になります。私のいのちは親、祖父母、さらにその先祖等、数えきれないはたらきを経て、現在の私に至っています。
仏事は今を生きる私たちのための儀式なのです。感謝と申し訳なさと喜びと悲しさすべてに手を合わせる時に、今の自分を温かく包んでくれるものがあることに気が付きます。それは言わば私の土台となる存在です。
私が立つその足場がはっきりすれば、すでに未来へ一歩踏み出しているのではないでしょうか。

イメージ画像
第十八世住職
浅井 仁麿
住職ご挨拶

History

​沿革

瑞蓮寺の建立は慶長元年(1596年)であり、開基である初代住職は浅井壽幸といいます。壽幸は戦国時代に近江の国(現在の滋賀県長浜市東浅井郡)一帯を治めていた大名浅井長政(1545~1573)の子浅井喜八郎(周防守)の子です。寺伝によると「姉川の戦い」にて浅井長政は織田・徳川の軍勢に壊滅状態にさせられたので、壽幸は助命と争いのない世の中の実現を念願して琵琶湖経由で京へ逃がれたという事です。そして縁のあった徳正寺(富小路四条下ルに現存)を頼り出家して一宇を建立しました。徳正寺には長政の妹が第五世祐誓の妻妙正として嫁いでいたのです。また瑞蓮寺には喜八郎の妻(法名正因)の両親である淨念と正乗の寿像が教如上人の御裏書で残っています。

 初代住職壽幸は寛永十四年(1637年)に没しています。初めに寺を建立した場所は堀川通三条下ル東側であり堀川に接する地でありました。以来三百四十年余り十五代に亘りこの地にて寺を継いできました。二代壽源三代壽傳についで四代圓爾から十四代圓至までは代々「圓」の字を法名に冠したのです。

 中でも第十二代の圓順(明治元年没)は本山にて四度講義し幾多の書物を著し、本山の嗣講(大谷派の学階で講師に次ぐ位)となりました。圓順の蔵書は膨大であり後述の強制疎開のために大谷大学へそのほとんどを寄託しました。現在「瑞蓮寺文庫」として七百三七百三十部三千冊余りが大学図書館に所蔵されています。昭和十九年、十六代住職春榮(昭和六十年没)の時、京都市の戦争疎開政策により、堀川三条下ルより移転し一時錦小路新町西人ルの民家を仮の寺とし、その後縁あって昭和三十一年に現在の新町通蛸薬師下ル百足屋町に移転しました。

 この地には室町の商人松居庄七の屋敷がありましたが、松居家が名古屋へ移転する事になり、当寺がそのあとを譲り受け松居家の邸宅を庫裏としてそのまま現在も使用しています。昭和四十年には表蔵を他所へ移築してその跡地に本堂を建立しました。

 さて松居庄七について少し述べねばならないでしょう。室町通錦小路(元明倫小学校南側)に「かねしょう」の屋号で半襟を商い大成功をおさめた松居庄七は、また熱心な真宗門徒でもあり本山である東本願寺より阿弥陀堂門の新築寄進の打診があった時これを快く引き受けたと伝えられています。明治四十四年(1911年)竣工の現在の門がそれです。ちなみに阿弥陀堂門建立の際、棟梁は本山側が予定していた者ではなく松居庄七は京都の宮大工、三上氏を指名しました。そのためかこの阿弥陀堂門は東本願寺の諸殿の中でも他の建物と少し趣を異にしており、重厚な中にも京都の職人の手による精緻な技が施され犯しがたい風格を漂わせています。

 今、当寺が庫裏としている建物も大正七年(1918年)に同じ三上棟梁によって建てられており現在百四年目にさしかかっています。

 尚、現在のこの土地は、江戸時代初期の豪商茶屋四郎次郎の邸宅跡といわれています。

瑞蓮寺の縁起

Overview

概要

​寺院名

真宗大谷派 慈雲山 瑞蓮寺

法人名

瑞蓮寺

包括宗教団体名

真宗大谷派

代表者

浅井 仁麿(第十八世住職)

設立

昭和28年

所在地

京都市中京区新町通蛸薬師下る百足屋町375

​連絡先

Gallary

ギャラリー

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