100円を持った事がない!?
- 浅井 仁麿

- 10月6日
- 読了時間: 1分
信心の話になると彦根のT先生はよく「百円なんて持ったことないということ」だと言われました。当時私はどういうことかよくわかりませんでした。昔は持ってなかったけれども今は持っているということではなくて、いまだかって一度も持ったことがないしこれからも持つことがないのだと。
それから30年ほど経つでしょうか、最近になってようやくその意味が分かってきました。人は信心というものがどこかにあって自分が聞法していくとそれが少しずつ近づいてきてやがてそれを手に入れることができると考えるのです。そして手に入れたものは二度とそれを離さないように強く握ります。しかしつかんでいると思っているのは幻であって手を開けてみるとそこには何もないのです。信心は「まことの心」でありますから仏様のお心です。信心獲得と言いますが私が私の功で手に入れたりするものではないのでしょう。凡夫としての歩みを続ける上でその人を明確に凡夫に安住させ、念仏とともに歩むその姿を信心獲得の人と讃えたのでしょう。
30年前の私は子供がおやつを買いに行く為に100円を握りしめている姿を想像してほほえましく思ったり、でも意味が分からずもどかしい思いをしたことを思い出します。







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